「心配している」優しそうな言葉に潜む暴力性と偽善
無自覚な「心配」という言葉は、優しそうな響きを持ちながらも、暴力性や偽善を孕んでいる。
「あなたの話を聞いて、心配になりました」
——そう電話相談員に言われた瞬間、私は強い不快感を覚えた。
一見、優しさの表れのように聞こえるこの言葉。
けれど、私にとって「心配」という言葉は、母から受けてきた過干渉や暴力、ネグレクトの記憶と結びついている。
過去の「心配」は暴力の口実だった
母はいわゆる「心配性」だった。
しかし、その心配は、私を守るためではなかった。
「心配させるお前が悪い」——そう言わんばかりに、顔をぶっ叩き、嫌味を言い、無視をした。
それは、私を否定し、思考や行動を変えさせようとするための口実だった。
この経験から、私は「心配している」とわざわざ口にされることに警戒するのだと思う。
電話相談員の「心配」に感じたこと
先日、電話相談を利用したときのこと。
話を終えた私に、相談員はこう言った。
「あなたの話を聞いて、心配になりました」
もちろん、その人が私を否定したり、変えようとしたわけではないことは分かっている。
悪気がなかったのも理解している。
だが——悪気がなければ良い、というものでもない。
無自覚な偽善
「心配している」「あなたのためを思って」
こうした“お節介な言葉”は、相手への配慮を欠いたまま社会で当然のものとして受け入れられている。
おかしいのに、誰もそのおかしさに気づかない。
それが危険だと私は思う。
本当に相手を思うなら、黙って見守るという選択肢もあるはずだ。
しかし多くの場合、この言葉は相手のためではなく、「良いことを言った」という自己満足のために発せられる。
私が求めていること
私が電話相談を利用するとき、求めているのは意見や感想ではない。
ただ、黙って話を聞いてほしいだけだ。
虐待が日常だった私は、長年感情を押し殺して生きてきた。
今は逆に「感じ切る」練習をしているからこそ、何気ない一言にも敏感に反応してしまう。
だから、こうして言葉にしてどうにか吐き出そうとしている。
まとめ
無自覚な「心配」という言葉は、優しそうな響きを持ちながらも、暴力性や偽善を孕んでいる。
そして、それが当たり前のものとして社会に受け入れられている現状こそが危うい。
昨日の相談員には言えなかったが、今朝、別の相談員に話せたことで、新たに受けた毒とともに古い毒も少しは吐き出せた気がする。
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