鈴木竜也監督のアニメ映画『無名の人生』を新宿武蔵野館で公開日の5月16日に観る予定です。
「“誰にも本当の名前を呼ばれることのなかった男”の波乱に満ちた100年の生涯」。その一文に、私はそれが他人の物語とは思えませんでした。
「本名」に感じ続けてきた違和感
私自身、幼い頃から自分の「本名」にずっと違和感を覚えてきたからです。それは「私の名前」ではないという感覚が消えません。私にその名前を与えたのは、私を虐待してきた両親です。名づけも、私をこの世に産むことも、虐待も、すべて彼らが一方的に決めてきたことであって、私は何ひとつ選んでいません。
私は英語圏で育ちましたが、現地の人には日本語の名前を正しく発音されることがなく、それをわざわざ訂正するのも面倒で、不本意なニックネームで呼ばれることが常でした。
解離性障害と「名もない人格たち」
そして長年の虐待の結果、私は複雑性PTSDを抱え、さらに解離性障害を発症しました。これは、自分を守るために無意識のうちに別の人格が現れ、その人格が交代するというものです。その多くが、自分の「本名」にも違和感を持っています。人格たちは、そもそもこの名前に自分の居場所を感じていないのです。
写真にしか残っていない幼少期の人格、父親からの性被害が始まった頃の人格、母親の暴力が激しくなった頃に現れた人格……彼らにはそれぞれ異なる性格や記憶、そして名前(あるいは名前の欠如)があり、互いに無関係に存在してきました。
SNSでも名前を統一できない葛藤
そのためSNSでは、使うハンドルネームが増えていきます。今度こそ「この名前に統一して発信しよう」と思っても、他の人格が反発し、ひとつに絞れないのです。ブランディングや効率性を考えれば統一した方が良いのは分かっていますが、それができない。
時には、「いっそ全部の人格の存在を明かしてしまえば楽になるのでは」と思うこともあります。けれど、人格たちは「自分たちがひとつの体を共有している」という事実を他人に知られることを強く恐れています。「AとBの中の人は同じ」と知られることが、彼らにとっては何よりも恐ろしい。
そんな私にとって、『無名の人生』は他人事とは思えない映画です。
「波乱の人生」に問う、自分の人生の輪郭
もちろん、「波乱に満ちた100年の生涯」と聞いて、少し意地悪な気持ちが芽生える自分もいます。
どれほどの“波乱”なのか、それは私の半生よりも劇的なのか、と。
私はまだ100年も生きていません。けれど、物心ついた頃から虐待や性被害があり、今も複雑性PTSDや解離性障害に悩まされています。
そうした人生を「普通」と思い込み、「誰にでもあること」だと自分に言い聞かせてきたところもあります。
でも、他人の「壮絶な物語」や「波乱の人生」に触れることで、ようやく自分の人生の異質さや過酷さを実感できることがあります。
だからこそ、私はこの映画を観たいのです。
この映画が何を“波乱”と語るのかを知ることで、自分の物語の輪郭も少しは見えてくるかもしれないから。
そんな問いに向き合いたくもあり、私はこの映画を観に行こうと思いました。
『無名の人生』の詳細リンク
詳細なあらすじや評価が気になる方は、公式サイトをご覧ください。
『無名の人生』を知るきっかけになったのは、映画などを紹介しているYouTubeチャンネル「おまけの夜」。
映画レビューのラジオ「シン・キネマニア共和国」でも絶賛されていたので、背中を押されました。
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