性被害の解離から始まった生い立ちと脱・毒親 CPTSD歴35年の『犯免狂子』

はじめに

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序章:フラッシュバック

夜、仰向けで目を瞑っていると突然、感覚つきの映像が脳裏をかすめることがある。

「またあの悪夢か」と思っていると、嫌なことを提案してくる挑発的な声がしつこく語りかけてきて……。

私はその映像と声をかき消そうと、ひつじを一匹づつ数えてみたりした。

両親の寝息に気づいて、ようやく寝落ちする。

このパターンは物心つく頃からあった。


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トリガー:「出身はどこですか?」

「…東京…です」

テキトーにはぐらかして、話を広げない工夫をする賢さが身についてきてるけど。

あいかわらず苦手な質問。

最近まで嫌々ながらバカ正直に答えては、神経をムダにすり減らしてきた。

「えっ、とー……〇〇です」

すると反応は十中八九こんな感じ。

「え!かっこいいー!ってことは英語ペラペラなんですか?!」

「あ、はい」

「すごーい!」

「ハハハ」

「え?ハーフ?帰国子女?」

「いや、二重国籍です」

「すごーい!」

リアクションに困る。

笑って誤魔化しても、間が持たない。

嗚呼、憂鬱。

もう消えたい。

この複雑な心境、私の性格が捻くれてるからなのは百も承知。

でもさぁ、一旦冷静になろう。

生まれ育った国の言語を話せるのってフツーじゃね?

それに出身地が「かっこいい」て。

そのイメージ、ハリウッドの洗脳力が「すごい」からですよ。

日本語で皮肉をいうと性格悪く聞こえるだけど、

みんなが必死で目指してる
「生きた英会話」は
「ほぼ皮肉で成り立ってる」
と言っても過言じゃないので、
悪しからず。

素直にいうと、出身地を伏せて生い立ちは語れないけど、「かっこいい」と言われると辛い。

かっこ悪い、恥の多い人生を送ってきたので。

私が生まれたのは、確かにかっこいいイメージ「も」あるCityだけど、育ったのはSuburbiaです。

ジャパニーズでいう郊外の住宅街。

緑が多くて、治安は良いとされていて、退屈だった……。

いや、稀にあったっけ、楽しいことも。

付き合いのあった日本人一家と、年に一度くらい会えた時。

優しいおねえちゃんが2人いて、憧れの存在だったのは覚えてる。

でも4歳くらいからかな。

悲しいことがずっと続いて、楽しい記憶がいつの間にか消えていた。

覚えてても辛くなるだけだからなのかな。代わりに悲しい記憶はたくさんある。

2歳の弟と戯れていた際、弟の頭を壁にゴンとぶつけた時のこと。

「やめなさい!お姉ちゃんでしょ!」

ショックだった。

おねえちゃんの険しい顔。

おねえちゃんから注目して欲しくてワザとやってみたのに。

暴力で自分の優越を肯定してもらおうとして、否定されたのが想定外だったと思う。

「心の病」の言葉も知らないお年頃。誰から移ったのでしょう。

とにかくショックと不満を埋めるために意地で開き直った。

「これからは『お姉ちゃん』って呼んで」

1歳と2歳下の弟達に呼び捨てを禁じ、命令はしても一緒に遊ぶことが減り、孤立していった。

それから一年くらい後のこと。

例のおねいちゃん達から無条件に可愛がられる弟たちに混ざって、

無邪気に遊ぶことができなくなっていた私は、

お母さんたちの会話を近くで立ったまま聞いていた。

話題は男性アイドルから、恋愛話に移っていったが、母は黙って座っているだけ。

私は会話に参加したくてうずうずしているというのに。

小学1年生の私は、同級生の男子ルークに片想い中で、タイムリーなネタも持ち合わせていた。

痺れを切らして「あ」と言った瞬間

「大人の話ッ!」

ピシャリと言い放った鬼の目に凍りついた。

後ずさりしたものの、広い家で居場所を失い、その後、どこで何をしていたのか全く覚えていない。

こういう特別な日以外は、ほぼ学校と自宅の往復。

母が学校まで迎えにきて、一緒に歩いて帰る。

帰宅したら、家事の手伝いをしてたかな。

変わり映えのない日々だから大した思い出もない。

そんなある日の帰り道、私はついに思い切った行動に出た。

母の目を盗んで、道を間違えたふりをして、近所に住むルークの家に向かった。

偶然、家の前にいた彼。

笑顔で私の名前を呼び”Pass me the ball”と言った。

私が持っていたボールを投げると、彼はそれをバウンスパス。

そういうパスもあるのかと閃いた次の瞬間、幸せなひとときは破壊された。

怒鳴られた。鬼の形相で母に。

涙だけは流すものかと歯を食いしばった。
……


「ルークが教科書、借りにきたみたいよ〜」

後日、母の呑気な声に対する苛立ちと、

好きな人の前で怒鳴られた屈辱と恥ずかしさから、

私は彼にそっけない態度をとった。

そんな自分が嫌いで嫌いで仕方なかった。

……

ブーーーン

彼がよく近所を乗り回していたgopedが、我が家の前を通り過ぎる音が聞こえるたびに、

苦しかった。

こんな近くにいるのに、一緒に遊べない。

私が意地っ張りなのか。

でもお母さんが快く遊びに行かせてくれるイメージは浮かばなかった。

……

平日通ってた現地校に友達と呼べる人はいなかった。

土曜に通っていた日本語学校には2年生から女友達が1人できたけど、遊べたのは週に一回の放課後だけ。

弟たちは2軒隣に住んでいた同級生の家を行き来して、毎日ゲーム。

私はその男子を心底恨んでいた。

私は毎日どこにも行けないのに、弟たちと騒いでるそいつが許せなかった。

……

成績の方は悪くなかったというか、良い方だった。

宿題は授業中に終わらせたし、「勉強」した覚えがあんまりない。

小学1年生の「時計」と2年生の「九九」を除いては。

パァーン

「なんでこんなこともわからないの?!」

いきなり母親に頬を引っ叩かれた。

なんで分からないか、分からない。

「答えは?!」

答えのない質問で問い詰めらている状況で、理解していない算数の正解を導き出せたら世話ないと思う。

でも、それが私の母の「教え方」だった。

なんで怒られてるんだろう。

算数ができないことって、そんなに罪なんだろうか。

子どもの顔を、大人の大きな手で思いっきりぶっ叩くことは正解なのだろうか。

理解できないことばかり。

ヒック……ヒック……

涙と鼻水を啜りすぎて鼻が詰まって、しゃっくりみたいな痙攣した呼吸。

勝手に出てしまう惨めな音を止められない自分を恨んだ。

バン!

テーブルを叩きながら、何かに取り憑かれたように、容赦なく怒り続ける母。

私、この人に嫌われてるんだな。

そう思ったら納得がいき、気持ちが楽になった。

..….ブーーーン……

……

早く大人になりたい。

大人になれば、私も話を聞いてもらえるし、やりたいことができる。

まず絵本をほとんど捨ててもらった。

胸の辺りがチクッとしたけど、子どもっぽい物はこの際、邪魔。

大人と子供の違い……。

年齢は時間の問題だとして、今からでもできそうな大人っぽいことを思いついた。

「お父さんの店で、働かせてください!」

父の足元で土下座をして頼み込んだ。

床に額をつけながら、心がざわついた。

けど時代劇で見た侍の仕草を真似した甲斐があった、10歳の誕生日。

唯一学校のない日曜は毎週、朝から夜18時くらいまで店の手伝いをした。

身長が足りないから、レジの真下に箱を置いたりして。

夕方になると客が引いて暇疲れしたけど、家にいるよりマシだった。

初日の仕事終わり、父から5ドル札を渡された。

お小遣い制度なんてなかった私には大きかったし、

何より大人に一歩近づいた気がして嬉しかった。

お金は結局、自由には使わせてもらえないのだけど、家で母といるより断然マシだった。

願いが叶っているはずなのに、日本語学校の友達が買い物にきた時だけ、サッと身を隠した。

ローラーブレードのまま入店し、何かを買っていく後ろ姿が眩しかった。

ローラーブレードのままで怒られないんだ。一人で買い物に行かせてもらえるんだ。

同級生なのに、別の世界に住んでいる人みたい。

この元同級生は今や国内外で活躍するDJ。インタビューで両親を尊敬していると言ってた。

やっぱり異世界の人だった。
……

14歳。法的な労働許可が降りる年齢になると、常連客からすかさずスカウトされ、仕事を引き受けた。

勤務日数は土日祝に増え、拘束時間も深夜までに延びて、休憩時間もなかったけど、

父の店にいるより時間を忘れられ、断然充実していた。

元旦の深夜に帰宅して、母親のおにぎりを一口含んだ途端、涙がツーっと流れて、びっくりした。

食事や休憩時間がなかったのは気にならなかったけど、

気づかないうちにお腹が空いてたことを、無感情な涙に気づかされた。

母は、バイト時間に制限をかけることは不思議と一度もなかったので、

その抜け穴を最大限に利用しない手はなかった。

しかしバイトのない月曜日から金曜日は相変わらず、母親の手伝い。

でも「飴と鞭」で言うところの「飴」もちゃんとあったから、

正直、さほど苦だとも思っていなかった。

例えば母は毎年、塩辛を仕込んだのだが、烏賊の口(希少部位で「トンビ」という)の唯一無二なコリコリ食感を味わさせてもらえたのは毎回、5人家族で私だけだった。

味見当番としての優遇は、食いしん坊な私の自尊心を保ち、弟たちに優越感を持つことができてていた。

「夕食は一家揃って食べるのが夢だった」という父の意向で、

毎晩7時くらいにみんなで一斉に「いただきます!」と合掌してから食べるのが日課だった。

食事中、戦後ひもじい想いをした父の話や、今も餓死してしまう子供たちが世の中に大勢いる話を何度も聞いた。

「ハゲワシと少女」という有名な写真があって、いつもこの子を想っていた。

あの子と比べたら、自分は恵まれている。

だから、不満を感じるのは罰当たりだ。

八十八の過程を経てご飯になった米粒も箸で寄せ集めて、有り難く頂いた。

「食べさせ甲斐のある娘だ」と、食欲旺盛な私を褒めてくれた。

ご飯を何杯も何杯もおかわりして、底なし沼のように食べた。

合掌して元気よく「ごちそうさまでした!」というと、2階のトイレに駆け込み、

正露丸を飲みながら下痢をするのは毎晩のことだった。

「なんで毎晩、お腹を壊すまで食べてしまうんだろう」という疑問はよぎった。

でも知っていたのは痩せるために嘔吐する「拒食症」だけだったので、

「痩せの大食い」の自分は該当せず、「摂食障害」だとは思いも寄らなかった。

ご飯が美味しいからしょうがないと思ってた。

……

中2になって、現地校にようやく友達ができた。

放課後、友達の家に行ってお喋りする時間が楽しくてたまらなかった。

でも17時頃、迎えにきた母親の車が見えると、ズーンと気持ちが重くなった。

夕食の後は「もう暗いから」という理由で遊びに行かせてもらえない。

お泊まりしたいと言っても「この前したばかりでしょ」と言われて許可がなかなか下りない。

門限を破るようになると、帰るたびに母親から長時間の説教とビンタを食らった。

母親から頬を叩かれる度に、ある感覚つきの映像が脳裏をかすめた。

それは、昔からずっと「悪夢だ」と思っていたので、信憑性が疑わしい。

けど、そのことが毎回思い出された。

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21歳〜転機:脱・機能不全家庭

「海外」で生まれ育ち、物理的には恵まれた面も少なくなかった。

でも母の過保護・過干渉・罵倒・体罰なども日常茶飯事。

「自由の国」で暮らしていることが皮肉なほど息苦しく、神経がすり減る日々にようやく転機が訪れた。

21歳。

私が強要されてきた「日本人像」が砂上の楼閣だとを知った。

それを諭してくれたのがニューヨークタイムズのベストセラー。

(邦題:『ザ・レイプ・オブ・南京:第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』)

軍人たちが侵略したアジア諸国で、幼児から老婆まで輪姦して市民を大虐殺。

731部隊が生きた人間に人体実験をし細菌兵器の開発。

大日本帝国の戦争犯罪の詳細を初めて知った。

しかも冷戦の中、アメリカとの裏取引で大半の軍人が免罪になり、

日本の医療業界などの高い地位に天下りするなどとして現代に至っている。

衝撃的なのに、妙に腑に落ちるところがあった。

祖国の加害者としての歴史を掘り起こすこと、

免罪と忘却とタブー化が現代社会にどんな影響を及ぼしてるのかを知ることは、

一日系国際人として当然の教養だと感じた。

平日は現地の保育園から短期大学まで通学し、

土曜日は保育園から中学まで日本語補習校に通っていた。

恵まれた教育環境にいる自負があった。

なのに、知らないと恥知らずな歴史を、子孫の私に誰も教えようとしなかった。

そのことも衝撃だった。

広島・長崎に原爆が落とされたことを知らない人はアメリカにいない。

ナチスのホロコーストも聞いたことがない人はいないだろう。

現地校ではヒトラーが歴史上最も残酷な人だと教え込むが、日本にはヒトラー級以上が複数いた。

今日に続くネイティブアメリカンや黒人の迫害を米国ではまともに教えないのと似たような感覚なのか。

日本の教育は一体どうなっているのだろう。

急遽、東京にある大学への進学に向けて舵を切った。

母が反対しなかったのは意外だった。

渡航先は彼女の母国、進学が目的で、滞在先は父方の両親宅。

安心材料が揃っていたからだろう。

晴れて、実家から脱獄する念願も一石二鳥で叶った。

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序の口:脱獄後の毒親呪縛

地球の反対側まできたとて、私を否定する母の基本姿勢は変わらず、電話やメールで攻撃は続いた。

学費も生活費も全て、貯金と奨学金とバイトをいくつも掛け持ちして自分で賄っていた。

なのに、母は私の選択する科目にまで文句を言ってきたので、自分のことを話さないよう心がけた。

日本の政治が専門の教授と出会ったことで、私は政治を専攻。

保守派の一大政党が、歴史教科書から戦争犯罪の内容を隠蔽し、

憲法9条や教育基本法などの改定を企み、

あの手この手で再び戦争ができる国にしようとしてきたことを学んだ。

しかも官僚や政治家や大企業に忖度して報じない記者が多く、市民は知る機会が少ない。

危機感を覚えた私は、教育基本法改悪反対のデモに参加したり、

憲法9条を守る勉強会や政治の討論会に参加したり、

日本外国特派員協会(FCCJ)の学生会員になったり、

外国人記者の通訳としてフリーランスを始めたり、

米新聞社の日本支局でインターンをしたりした。

初の通訳は奇しくも、南京大虐殺を全否定する映画の監督のインタビューだった。

ホロコーストを否定するドイツ人を見つける方が難しい。

対照的に、南京大虐殺などを否定する日本人が一定数いて、知らない人も大勢いることが一番の悲劇だと感じた。

自由研究では、先住民のアイヌ民族、穢多・非人と呼ばれた被差別部落民、

本土の捨て石にされた沖縄や米軍基地にまつわる人権侵害を学んだ。

声が届きづらいマイノリティの課題を深掘りする度に複雑さが増し、当事者以外には分かりにくい壁にぶち当たった。

自分自身も「女性という最大のマイノリティ」である。

そこに気づかせられ、ズンと重くなったのは、当事者として声を上げる責任を感じたから。

大学4年生になって、選択できる科目が限られるうえ、

尊敬する教授が一年間のサバティカル休暇に入ってしまい、魅力的な授業がなかった。

卒業することに元よりこだわりはなく、卒業証書だけのために、全財産の70万円を使い果たしてしまうのは、

身が引きちぎられる思いだったが、母が共感してくれるわけなかった。

日本ではバイトを禁じてる義務教育の学校があるからなのか、

学費は親持ちで、生活費の仕送りまでしてもらう大学生が少なくないと聞く。

親から経済的にも自立するため、学校以外の時間は仕事でスケジュールを埋めてきた私には無縁の世界。

それに米国の大学などと違い、日本の大学は入学が難しく、卒業が比較的に簡単だから、遊びに走る学生が多いと聞く。

日本では有名な大学のわりに、授業の質は学費の額に見合わず、真面目に学びに来てる私からすると、通い甲斐がなくて迷惑していると毒づいた。

「季節性鬱(SAD)かもしれない」と毎週通っていた大学の心理カウンセリンセラーから言われた。

冬は確かに苦手。南国の常夏生活なら幸せを感じられるだろうか。

悩んだ挙句、一学期だけ休学(休学にも10万円くらいかかった)。

沖縄に約2ヶ月間滞在し、冷静に考えた末、退学届を提出。

私は小さい頃からまだ知らない世界を見たいと切望してきた。

父がバックパッカーとして世界放浪を数年間した頃の話をよくした影響もある。

「世界一幸せな国」ブータンに行けば、幸せなるものを体験できるのだろうか。

高校生の時、世界一周クルーズのPEACEBOATに乗れるほどバイド代を蓄えていたが、母に反対され、短大に進学。

興味深い授業が多く、脱獄への鍵となった運命の洋書と出会うきっかけにもなったので後悔はしていない。

でも今度こそ、ずっとやってみたかったことに自分で稼いできたお金を使ってみたい。

たまたま訪日していた父に退学届の話をしてしまった。

すると後日、父が退学届を停止させたことを事後報告された。

父にも裏切られた気持ちになり、話を打ち明けたことを後悔した。

仕方なく、やる気を感じられない教授の授業を受け、単位を取った。

私の意に反してまで卒業を望むなら、交換条件として経済的な支援をさせるべきだった。

でも短大生の頃も学費等の援助を、彼らに頼んだことは一度もない。

むしろ自発的に家賃を毎月入れていた。

少しでも一人前の人間として扱ってもらいたいという打算からだが、そんなに甘い話があるわけなかった。

「これが最後の親孝行だ」と憎しみを秘めながら、形だけの卒業式に出た。

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25歳〜母みたいなDV女に豹変

25歳。彼氏と出会ってから数ヶ月後、私から彼氏への日常的なDV加害が始まり、母みたいに豹変してしまう自分に困惑した。

自己嫌悪に陥るも怒りの衝動を止められず、自分の異常に気づきはじめた。

当初は、女性ホルモンが生理周期によって変化する関係で気分が落ち込む月経前不快気分障害(PMDD)が原因だと勘違いしていた。

そのため婦人科にいき、伝えた疑惑通りPMDDと誤診した男性医師から、目当てだった低容量ピルYAZを処方してもらった。

中学の頃、避妊のために低容量ピルを飲んでいた親友が副作用に悩まされていたし、最悪の場合、血栓による死亡リスクがあることも常識だと思っていた。

だから「副作用はありません」と医師が言い出したの際、その自信と無知には耳を疑ったが、適当に聞き流した。

怒りの感情をコントロールするために、背に腹は変えられないと腹を括っていたから。

数年後、酷い偏頭痛が数ヶ月続いた。

「YAZを服用し急死する女性が続出」と伝えるニュースを偶然見つけ、私の症状と酷似していたので、服用を辞めたら頭痛はすぐに消えた。

当時は海外の大手メディア会社の新規事業の発足チームの一員としてヘッドハントされ、社会的には成功していたはず。

なのに、虚しさしかないことに向き合わされた。

このままでは死んでも死にきれない。

自然治癒力を促す代替医療に趣をおいた生活習慣の改善や、潜在意識に働きかける精神治療を積極的に始めた。



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34歳〜封印された父への怒り

34歳。過保護・過干渉な母親に悩んできた田房永子氏のコミックエッセイ『キレる私をやめたい〜夫をグーで殴る妻をやめるまで〜』で、心理療法ゲシュタルトセラピーを知り、ワークショップに参加してみた。

「……下腹部に違和感があり、目が覚めると真っ暗闇で、父の手が下着の中で動いていた。気持ち悪かったけど、寝ぼけているのかと思い、寝返りを打つように母の方を向いて手を振り払おうとしたら、手が私の下着の後ろを掴んだので、怖くなって。でもお母さんを起こしていいのかも分からなくなり、なるべく早く、でもなるべく静かに両親のベッドからどうにか抜け出して、近くのトイレに駆け込み、レバーを下ろし、勢いよく流れる水の音量に焦りながら、家族みんながこの音で起きてしまわないようにと願いながら、自分のベッドに入って眠りにつこうとした。翌朝『お父さんにめごめごしてもらったんだって?よかったねぇ』と母に優しく言われながらギュッと抱き寄せられて、混乱して、声が出なかった……。」

という奇妙すぎて「ただの悪夢かもしれない話」をした。

涙と鼻水を滝のように垂れ流しながら。

「では、お父さんへの怒りを声にしてみて」とセラピストから言われ、戸惑った。

私は、この話が仮に事実だった場合、助けてくれなかった母に対する怒りに取り組みたかったので、想定外の指示に言葉が詰まった。

仕方なく、仮に事実だった場合の父に「怒り」の言葉を言ってみた。

何を言ったか覚えてないけど、私自身が発声しているというのに、自分の声ではないような感覚があり「無理やり言わされている感」が心地悪かった。

ワークショップ終了後、私は慌ててセラピストに「でも、私は虐待を受けたとは思ってないんです」と伝えた。

セラピストはなにかを言ったが、その前に一瞬だけ目が点になって絶句したのが忘れられない。

その一瞬の反応から、自分が何かおかしなことを言ったかもしれないと察した。

全く予想外な展開となったものの、涙がたくさん出たからか気分もスッキリし、参加前より足元も軽く感じた。

しかし、ただの悪夢かもしれないと思っていたことが事実かもしれなくて、私は虐待を受けていたかもしれない、となると頭の中が再び渋滞した。

結論に至る前に、色々と情報の整理が必要になった。

まず虐待の話でよくあるのが両親の不仲、離婚、片親、継親、DV。

中高時代にできた友達の家庭に多かった。

我が家では、夫婦喧嘩は見たことなく、父は母のことを愛している旨を言動で表現していた。

それに私は待望の第一子で、幼い頃から父から溺愛されていた。

ずっと娘が欲しかったという父が婚前に旅先で見た景色から私の名前を閃いた話や、

私が母との蜜月中に授かった「ハネムーンベビー」だといういう話もよく言っていた。

まだお腹の中にいたとき、クラシック音楽をレコードで聴かせていたらしいし、

生まれた日はどれほど興奮したかという話もよく聞いた。

家族揃ってご飯を食べるのが夢だったという父の意向で毎晩、家族全員で元気よく「いただきます!」と手を合わせてからいただいた。

両親は食事中、向かい合って定位置に座り時事ネタなどについて話し合っていた。

ご飯は母の手料理が基本だったが、父は刺身の盛り合わせ、すき焼き、鍋などの得意料理をたまに作ってくれた。

父が私に言った口癖の一つに「お前を飲兵衛にするのが夢なんだ」があった。

乳児の頃、祖父母と伯父らに囲まれ、父と一緒に日本を初めて訪れたことがわかる写真がある。

既に固形物を食べられる歳だったらしく、刺身などをペロリと食べるのを面白がった親族が私に惜しみなく与えたらしい。

父の母が料亭の娘という影響もあったのか、伯父は板前や魚屋をやっていた。

伯父が実家に居候していた頃、大きい魚の目玉の裏にあるゼラチン質や希少部位が絶品だとかいう食べ方を色々と教えてくれた。

なまこ、鮑の肝、鰻の肝、帆立のひも、烏賊のトンビなどと、磯香りや苦味の中の旨み、コリコリ食感を求める通好みな味覚を持つ子供に育った。

海外でこのような食材が手に入ったのは、現地の日本食レストランでの父のキャリアや、独立してからの日本食料品店経営が大きい。

自営を始めた理由も、家族との時間を増やすためだと聞いている。

毎年ではないが、国内外へ家族旅行にも連れて行ってくれた。

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0歳〜愛妻家の性的逸脱行動

そんな家族想いな父、母と仲の良い父、私を溺愛する父が、自らの手で我が子の人生を意図的に狂わそうとするとは思えなかった。

同時にあの父なら、悪夢かもしれない話のようなことをやりかねないと思う節も仰山あった。

私が「初めてウソを理解した日」まで遡ろう。

現地校の保育園から帰宅すると、ダイニングテーブルに作り途中のホールケーキが置かれていた。

私は人差し指を突っ込んでホイップクリームを舐めた。

穴にすぐ気づいた母は、既に怒りまじりな声色で私を問いただし、私は咄嗟に「ううん」と言った。

バチン

「嘘つきに育てた覚えはありません!」と、私は頬をビンタされ、母の反応に驚いた。

母は泣きわめく私を2階のクローゼットの中に閉じ込め、1階に戻った。

視界は真っ暗闇。

鍵のかかっていないドアを少し開けたが、母が怖くて出られないので、私は電気をつけた。

細長く奥行きのある空間を見渡すと、何かを覆っていた布から中身が少しだけ覗いていた。

開けてみると、肌を露出した女性が苦しそうな表情で見上げている雑誌の表紙。しかもそのような雑誌が山積みになっていた。

そういう物を見たのは初めてなはずで、なんという物かは知らなかったのに「あ、おとうさんのものだ」ということはすぐ分かった。

ショックと悲しみと恐怖で溢れていたはずなのに、途端に頭がスーッと冴え、馬鹿馬鹿しくなった。

「私がお母さんのケーキを無断で触ったことや、声色から叱られることを恐れて咄嗟に答えたことは『ウソ』といい、悪いことなんだ。なら、こういう隠れた趣味のあるお父さんが、アノトキ私の体にしたことは咎められなくて、そのことについて母にアノヨウナことを言ったのは『ウソ』ではないのか。少なくともお母さんは『よかったね』と言って喜んでいたじゃないか。私がしたことが『お仕置き』に値するなら、お父さんがしたことは?お母さんは騙されていることに気づいてもいないのに、自分が正しいと信じてしまっている。」

純粋無垢だった私に「嘘」の概念が無意識にインストールされた瞬間が思い出され、いとも簡単に騙されてしまう母に幻滅し、不信感が強固された。

私がクローゼットで見つけた物は、その後、家中の色んな場所で見られた。

まず、例のクローゼットの隣にあるトイレ。トイレットペーパーの真下の床に新しい号が常に置いてあった。

このトイレは、子供たちの寝室と両親の寝室の中間にあり、毎朝起きたら一番最初に行く場所だった。

父の机の一番下の深い引き出しの中にも、猥褻な雑誌やマンガも沢山入っていた。

いつからが、この引き出しだけ、片方のレールから外れた状態だった。

映像も沢山あった。父の店では複製したVHSのレンタルもしていて、大半がドラマやバラエティやアニメだったが、猥褻なビデオもあった。

立派な著作権侵害だが、ネットが普及する前、日本の大企業の駐在員であるお客さんには人気商品だった。

店の入り口の右手にビデオ棚があって、猥褻物は一番下の段に陳列していた。

ビデオのラベルに記載されたタイトルがピンクの蛍光ペンでハイライトされていたから猥褻物だと一目でわかる。

ラベルをワープロで作るのは母の内職だったが、ピンクの線を引くのは父がやっていた。

猥褻物とは俗に「ポルノ」「エロ」「アダルト」と言われたりするが、ポルノやエロは「性的興奮を刺激する」という意味が含まれ、アダルトは「成人」という意味があるので、語弊がある。

興奮するのは一部の人であり、嫌悪感を示す人が大半だ。

それに相手の意に反する表現が当然のように含まれる内容が主流で、性犯罪の現場を撮影しているものが少なくないため、何歳になっても許されない言動を「大人」という言葉で正当化するのは危険。

「猥褻」と思わない人が一定数いても、猥褻だと思う人口が非常に多い現実と、私もその一員であることを示すため、「猥褻物」を採用している。

とは言うものの。

猥褻な表現が、ドラマやバラエティ、子ども向けのマンガやアニメにも蔓延っているのも事実。

年代が古いものほど倫理観が狂っているものが著しいけど、現代にもその伝統が引き継がれていることが少なくない。

私が未成年だった1980~90代も、親に見させてもらっていたバラエティやマンガ・アニメに猥褻表現が少なくなかった。

小学5年生の少女が入浴中、いきなり扉が開き、同級生の少年に裸を見られ不快感を覚える。

少年に悪気がない設定の割には、頻繁すぎるほど定番なシーンなことから作者の逸脱した性的嗜好が垣間見られる。

現実で起きたらトラウマ必須な表現を、子どもに繰り返し見せ続けた超国民的マンガ・アニメ。

子どもの頃から違和感を覚えいた一部シーンを除けば、シリーズ自体は面白く好きだっただけに残念だ。

いまや同じく超国民的アニメといえば、性器などのプライベートパーツを露出したり、猥褻な発言を母親にしていた5歳の保育園児が主人公のものがある。

こちらも同様に「ギャク漫画」が原作で、要するに「面白いもの」とされている。

アニメ放送開始は私が小学3年生の頃で、日本語学校に子どもを通わせていた母親たちの間で「教育に悪い」と眉を顰められていた。

私の母親もそれを禁止するのかと思いきや、レンタル用のビデオとしてダビングされていて、簡単に観れた。

個人的に、このまんが・アニメの主人公には心底迷惑をしているのだが、その話は後述する。

猥褻な表現を「ギャグ」「面白い」とするのは、バラエティにも頻繁に見られた。

お笑い芸人が、知能の低い殿様として、女性複数の上半身を露出させ、強制わいせつをする。

また同芸人は一風変わった男性として、女性がシャワーに入っている間などに部屋に侵入して、女性を驚かせる。

父がある日、同芸人のことを「しょうもないなぁ」と言いながらが失笑した。

「しょうもない」という感覚が父にもあったのかという驚きと、そう感じながらも子どもにそんな映像を見せ続ける神経がどう結びづくのか不思議だった。

コントなどは笑いが映像の外から聞こえたりするので、自発的に笑えなくても「今は笑うタイミングなんだな」ということが、子どもでも分かる。

最初のうちは目新しさからか、知能の低い殿様や、変わった男性のコントが面白いと思ったりもしたが、変わり映えしない芸風に子どもながら流石に飽きた。

父は自身の性体験に関する話も、惜しみなく堂々と話した。

その都度、誰に話していたか覚えていないが、私に直接話していたこともある。

少なくとも幼い私の耳に入るような場所、大体はダイニングで話していた。

例えば、若い時に、年上の女性から性的な手引きを受けたこと。

バックバッカー時代、女性を買い過ぎて、お金がなくなってホームレス同然になったこと。

結婚したての頃、母に性交を一日に3回求めたら、白い目をされたということ。

父の行動も性的に明け透けなことが多かった。

私はある時から2階の子ど部屋から、1階の寝室に移動したのだが、風呂兼トイレの斜向かいの位置にあった。

父は毎晩、風呂に入る前、既に全裸の状態で、私の部屋の前を堂々と通った。

父は仕事中も性的なことを考えていたようだ。

作業場の周りに、原稿用紙が挟まれたクリップボードがあり、そこに現れていた。

まともに読んでもいないのに、子どもの私が性的だと一眼でわかったのは、喘ぎ声を表す波線が多用されていたからだ。

短大生の頃、父が仕事に失敗した時期があった。

正面玄関を開けて右手にあるリビングの床で毎日、父は横になりながらテレビを観ていたのだが、ズボンの中に手が必ず入っていた。

短大の時にできた彼氏と、自室で会話をしていたら、ノックも声がけも何も突然ドアが開き、父が無言で顔を覗かせ、ドアを半開きにしたまま立ち去ったことがある。

父の性依存の様子は、他の大人が発した言葉からも確認された。

我が家には、父がバックパッカー時代から付き合いのある現役の旅人のIさんが居候することがたまにあったのだがそのIさんが父に言った。

「検索歴を奥さんが観たらマズいと思うから消しておいた方がいいよ。」

実家の地下にあった家族全員で共有していたパソコンのことである。

実家の地下といえば、ずっと謎なことがあった。

天気が優れない日は、洗濯物を干していた地下のボイラー室。

棚の上部に、女性のものと思われる乳房だけの画像と、英字の大文字9字の綴りが鏡にプリントされた木枠の盾が、飾られていた。

綴りを大人になってから調べてみたら、過激な猥褻表現を含む欧米の男性向けライフスタイル雑誌で、未成年も起用していたことで問題になっていたという。

たまにしか行かない地下の一室の隅にあったにしても、物心つく頃から目についていた盾。

その背景を知る余地もなかったが、「なんであんなところにあんなものがおいてあるんだろう」と不思議でたまらなかった。

お母さんはアレに気づいているのだろうか。気にならないのだろうか……。

私が進学のために実家を出て、日本に引っ越した後も、父の性的逸脱行動は続いた。

父は度々、祖母の様子を見るために訪日し、その度に連絡があり、会った。

短大生時代、父と神保町を歩いていて、雑居ビルのエレベーターに入る父の後について行った。

どこに行くんだろうと思ったのも束の間、ドアが開いた瞬間、そこは猥褻媒体専門の本屋だった。

エラベーターから出たかどうかも覚えていない状態で、本をまじまじ見たわけでもないのに解る。

ピンクや赤を過剰に使うあの異様な世界観が空間から溢れ返っていた。

なんでここに連れてきた?と思考が追いつく前に、父はどこかへ姿を消し、私は呆然と立ち尽くしていた。

すると何事もなかったかのように、父が再び現れ、一緒にエレベーターで降り、再び外の世界に戻った。

あまりにも唐突で、奇妙な出来事に、自分の正気さえ疑ってしまう。

実際、鮮明に覚えているのは、不快でしかないわずか数分のことで、その前後の記憶は欠如している。

また別の日、SNS上で父から友達申請が来ていたことに気づいた。

LinkedINというFaceBookのビジネス版みたいなサイトで、肩書きや経歴などが強調されている。

父のそれを見ると「官能小説家」とだけ書かれていた。

流石に承認せず、見なかったことにしたが、一体何が目的なんだろうと、全く意味がわからなかった。

FaceBookは既に繋がっていた。

ある時から父が私のタイムラインに頻繁に投稿するようになり、私のページなのか父のページなのか分からない状態になっていたので、制限をかけたら苦情を言われた。

父は「女好き」なんだと思っていた。

中高生の頃、私の女友達の前では超ご機嫌で、私の友達とFaceBookで繋がったことを嬉しそうに話した。

でも私の男友達の前ではムスッとし、男友達を家に入れることを怒鳴られたことがある。

私には弟がおり、弟は性別問わず友達を呼べるのにだ。

父が「男尊女卑」だということは徐々に気づいた。

母は物心つく頃から、家事育児の他、父の店を手伝ったり、アルバイトをしたりていたりした。

私は物心つく以前から、家事と育児の手伝いをしてくれたと母から聞いている。

10歳から学校がない日曜日は父の店で朝から夜まで働いたし、

合法的に働ける年になったら、家事をしつつ、学校がある時間以外、極力バイトを入れていた。

「脱いだ服の籠が満タンになったら、地下の洗濯機のところまで持って行くなどして欲しい」

父が仕事に失敗し無職になって、リビングで自慰行為しながら毎日テレビを観ていた頃、痺れを切らした私が言うと、逆上された。

その言葉は全く響かなかったが、一家の大黒柱がせっせと働いている間、家でゴロゴロしてる女子供から指図される筋合いはないとでも思ってるから逆上できるのだろう。

父の男尊女卑は親譲りだということが、父方の両親宅で居候させてもらって直ぐにわかった。

祖母は、私の弟に対して「男の人はすごいね〜」と何もしてないのに褒めちぎった。

私に対しては、何をしてもしなくても「女のくせに」が口癖だった。

祖母も女なのに、「女のくせに」と言える神経が謎だった。

私が日本に越してすぐ、祖父が亡くなり、葬式のために父が訪日した時のこと。

私は大学の勉強をしようと、土曜日に図書館に向かおうとしたら、父から止められた。

「階段に埃が溜まっているから掃除をしていけ」

私は以前、床に埃が溜まっていることを祖母から高圧的に注意されたことがあるので、たまには掃除をしていた。

一方、弟が掃除をしているのを観たことがなかった。

「勉強があるから、弟に言って。まだ寝ているのだろうから。」

そういうと、父親はなぜ怒り始め、私のことを打とうと手を挙げた。

叩かれることは免れたが、その後一体どうなったのか記憶が抜けている。

でも父が男尊女卑である疑惑が決定的に証明された日として印象に深く残っている。

ちなみに祖母に掃除が行き届いていないことを注意されてから、私は積極的に掃除をしようとしてきた。

年寄りの祖母の手が届かないだろう家具の下や、トイレ掃除。

でも祖母は私が掃除をするのを見つけると

「なんだい!私が掃除をしていないとでも言いたいのか!」と怒鳴った。

女の私は掃除をしてもしなくても怒られる。

男の弟は掃除をしてもしなくても褒められる。

ノイローゼになり、食事をしても味がしなくて、満腹感も得られず体重が増え、生理が半年以上来ていなかった。

生理が来ないのはラッキーと思ったが、母に言われて、婦人科で薬をもらったらようやく来るようになった。

大学を卒業した後、両親が新居に引っ越し、しばらくしてから訪れた。

そこは南国の島で、両親がハネムーンの時に訪れ、そこで私を授かったという、ゆかりのある地。

両親が近くのビーチに連れてってくれて、浅瀬で泳いだ。

父は昔から趣味で写真を撮っていて、その時も一眼レフのカメラを持っていた。

撮った写真を見せてもらっていると突然、私が海に潜った時に水面から尻だけが出ている画像がスクリーン全面に映った。

たまたま遠目に写ってしまっているのではなく、あからさまにお尻だけのドアップが映されていた。

それにいち早く気づいた父は「あ、いけない」と言って、カメラを操作し始めた。

私は呆れて、言葉も出なかったが、実家に物心つく頃からあった分厚い写真アルバムのことが思い出された。

厚さ5センチ程あるハードカバーの写真集は重量だけでなく、気持ちまでも重くさせるものだった。

このアルバムは各子どもに一冊あって、主に父が撮影してキュレートしたものだ。

これは一見、両親の愛情の象徴のようにも見えたけど、それを開くたびになんとも形容しがたい複雑な気持ちになっていた。

まず最初の写真は母親の腕の中にいる新生児の私。

次のページに首が座ったばかりで、よだれかけをして満面の笑みを浮かべている乳児。

物心つく頃から、この乳児をの写真を見る度に、これが私であることが信じられなかった。

何がそんなに嬉しくて笑っているんだろう。

そして次のページが最も嫌で、その写真を見なくて済むように、そのページを飛ばしていた。

その写真はおそらく母が私のおむつを変えている時の写真で、私の性器だけがドアップで写っている。

子ども頃、この写真を一体、どのように受け止めればいいのか分からなかった。

父はこのアルバムを愛情込めて作ったつもりなのだろうが、そう思えば思うほど、気持ちが重くなった。

今ならその気持ちがよく分かるし、当然だと思う。

これら全体の一部である「愛妻家の性的逸脱行動」に関する記憶は確かだが、結論に至るには早い気がした。

それには以下の理由がある。

・「父が性的虐待をするような人間に思えなかったこと」

・「私自身が性的虐待を受けたと思えず、むしろお父さん子だった矛盾」

・「仮に性的虐待を受けていたとして、それを幼児期の夢かもしれない記憶意外で証明することはできるのか」

・「そもそも夢ではない証拠はあるのか」。

ずっと疑ってきただけに「ただの悪夢かもしれない話」の信憑性がまだ説明されていない気がした。

大前提として、児童性虐待に関する理解は世界的に遅れているが、欧米では日本に比べると研究も議論も進んでいる。

そのため私は英語で情報を得ることが多いが、米国では比較的に安価で簡単に入手できる本などが日本では限られ、一握りの和訳本を利用することも少なくない。

そのような状況下、児童性虐待研究など家庭内の暴力に関する第一人者デイビッド・フィンケルホー氏の著書の翻訳もされている森田ゆり氏の著書『子どもへの性的暴力』も参考にしながら、信憑性を確かめた。

①「父が性的虐待をするような人間に思えなかった」

「性的虐待」というと「見知らぬ人から突然、殴る蹴るなどの暴行を受け強姦される」というイメージに限定されていた。

大人が子どもに教え込む「見知らぬ人は危険(英語で”Stranger Danger”)」という誤解に通づる。

母が学校と仕事以外の外出を厳しく制限したのも「危険は家の外にある」という信念の元だった。

安心しきっている家庭の中に、子どもに虐待をする人がいるなんて、想像できないのはわからないでもない。

でも現実、性犯罪は信頼関係を利用して犯され、加害者は被害者が知っている場合が大半である。(理由は後述)

「娘の安全を危惧して躾けている」と主張していた母でさえ、体罰・罵倒・嫌味などのモラハラという虐待をしていたが、そのことには全く無自覚だった。(理由は後述)

母の分かりやすい虐待と比較した時、父の猥褻行為はどれも陰湿で、奇妙で、唐突だったので「え?今のって本当に起きた?」と信じられない感覚になった。

それに一家の大黒柱だった父を敵に回すことはあり得なかった。

母が父に騙されていると気づいてから、母に頼る道は断たれた。

母の体罰で深まる一方の確執は、私が両親に真実を伝える機会をますます減らし、それによって家族が繋ぎ止められる。

寝る前に感覚付きの映像(フラッシュバック)を見るたびに初めての猥褻を「悪夢」と否定しながら、

体罰を受けるたびにもフラッシュバックする悪夢かもしれない映像が真実なら「墓場まで持っていく」と誓っていた。


②私が「性的虐待」を受けたと思えず、むしろ「お父さん子」だった。矛盾。

私は父親と「仲が良かった」。母はどこに地雷があるか分からないほど神経がすり減る

「お姉ちゃん」として弟たちのことを見下していたし

「ファザコン」とう無言の視線を父の女友達から感じていた。

父親は母のようになんでもかんでも否定せず、機嫌も良く、陽気で冗談をいう人。

どこに地雷が落ちているかわからない母と一緒にいるより楽しかった。

ただ私は、父

③私が「性的虐待」を受けたことを、記憶意外で証明することはできる?

④夢ではない証拠はある?

しかし色んなことに気づいてしまった今、両親にどう接すればいいだろう。

ゲシュタルトセラピーのワークショップに参加した1週間後、『しんどい母から逃げる‼︎いったん親のせいにしてみたら案外うまくいった』という新刊のコミックエッセイを購入。

タイトル通り、田房永子さんのまたもやタイムリーな作品のお陰で、一旦両親のせいにしてみて、彼らの連絡を一切無視してみることにした。

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初診「解離性障害」(更新中)

ゲシュタルトセラピーのワークショップ参加後、個人セッションを数ヶ月後に予約した。

その間、精神科医を初めて受診。

医師はイライラしながら「あなたの話を聞くつもりない」「私の本を読みなさい」と診察中も著書ばかり勧めてきた。

問診票をみて診断したのか分からないが、「解離(解離性障害)はあるね」と言われた。

再訪する気にならかなったどころか、お陰で鬱が悪化した。

ゲシュタルトセラピーの個人セッション当日、エンプティ・チェアという方法を使った。

私が一人二役で、「小さい頃の自分」と「今の自分」として対話をした。

私がずっと「小さい頃の自分」を責めていたことに気づいた。

「なんでもっと早く助けを求めなかったの。」

小さい頃の私は、当時からできることは全てしていたという。

「抵抗して、逃げた。でもお父さんからされていることが怖すぎて、お母さんを起こせなかった。お父さんから怖いことをされていると認めたくなかったのかもしれない。パニックになっていた。翌朝のお母さんの言葉に混乱して声が出なかった。それにお母さんが嬉しそうだったから、なおさら否定できなかった。

自分に起きたことがお母さんが言ったように『良かった』訳ないと気づいた後も、話さなかったのは、不安だったから。

また否定はされても、信じてはくれないだろう。

仮に信じてもらえたとして、両親の仲が悪くなって離婚することにでもなったら、お母さんが一人で子ども3人育てるのも大変だろうし、弟たちと離れ離れになってしまうかもしれない。

私が何もなかったように振る舞えば、このまま仲良し家族として暮らせると思った。」

あの家族の中で、私の居場所を確保するために、当時できるベストを尽くしてくれたのだった。

私は「ありがとう」と言った。

心がこもっていたとは言い難いが、小さい頃の自分にお礼を言ったのは初めてだった。

セラピー終了後、セラピストが驚いた表情で私に言った。

「小さい頃のあなたとして話す時に毎回、正座に座り直していました。」

無自覚だった。

小さい頃、常に感じていた緊張感が座り方にも現れてたのかと思うと納得できた。

数日が経ち、セラピーで感じたことを形にして残したいと思い、ペンを取った。

すると、小さい頃の自分あるいはインナーチャイルド(IC)と思える少女の顔に喜怒哀楽豊かな表情が描けた。

過去にもこの少女の絵を描いたことは何度もあったけど、仮面をしていたり、後ろを向いていたので、大きな変化だった。

次にICと今の自分の似顔絵から吹き出しを描いて会話をさせてみた。

会話のリレーが続き私が「そろそろ幸せな人生を歩みたいんだけど、いいかな」と聞くと、ICは何も答えてくれなくなった。

その後もイライラや鬱、彼氏に突然ブチギレるDVも続いた。

晩秋になったら仕事上、再訪したい渡航先がり、行けるかギリギリまで不安だったけど、土壇場で実行に移した。

私は昔から、働くことになると、仕事モードに切り替えられてきていたので、そういう意味では通常営業。

解離性同一症でなければ、少なくとも「High-Functional Depression(微笑みのうつ病や、社会順応型境界性パーソナリティ障害と和訳されている)」に通ずるものがあると言える。

(場所の詳細は世界情勢上、今はまだ多くを語れないのが残念だけど、この話を完結する前には書く予定です。)



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35歳〜両親と対峙・絶交(更新中)

憧れていた場所で、仕事で成果を上げていたのに、精神状態はどん底を突いていた。

秋から始まった業務がひと段落した後、私は見晴らしの良い標高約1000メートルの山嶺にあるログハウスで独り、暮らしていた。

完全にオフグリッド(電気と水は太陽光蓄電、暖房は薪ストーブ、台所はプロパンガス)なのだけど、水不足な環境で、なぜかお湯が出なかった。

他の従業員兼前テナントが既に上司に伝えたのに、改善されなかった。

上司が気分屋なのと、お願い事が元々苦手な私は、改めて念を押すということをしなかった。

けれど、私は「バケツ・バス」という洗浄方法を女性従業員に教えてもらっていたので、これで乗り切れると思った。

寸胴の鍋でお湯を沸かして水で割り、コップを使って、体を部分的に洗っていく原始的なやり方だけど、どこでも生きていける自信がつく。

(つづく)

水も凍結で出ないことがあり、車も雪で動かない状況で、真冬の3ヶ月を越した。

自分の個人的なニーズのことになると、それが生死に関わることでも、周囲に助けを求められず、意思疎通が上手くできないことに気づかされた。

(つづく)

人生が狂い始めた時点からやり直さないと、何も変わらないと悟り、死より恐れていたことをした:両親と対峙。

結果、動揺しながら責任逃れする両親と絶交。

(つづく)

4歳〜弟への加害を自覚(更新中)

更に私は弟に同類の加害をしていた事も自覚し、謝罪。

弟は許すと言ってくれたが、加害の破壊力を認められるようになった私は自分を許せない。

(つづく)

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「浮気」を肯定しようとした理由(更新中)

躁鬱状態の時に出会った男から裏切りや猥褻をされたのに、好意を感じ、彼氏に伝えたうえで、男と海外出張。

早い段階からDVを受けるも、コロナ禍になり海外租界を共にした。

男にレイプされたことを彼氏に相談したら、別れを告げられ困惑するも、コロナで日本に帰るのも困難で、関係が双方で悪化。

ようやく日本に帰国し、DV男をブロックできたが、常に身の危険を感じている。

彼氏との関係は辛うじて続いているが、彼氏の心を深く傷つけてしまったことがやるせないのと、同時にそこまで怒るほど私を好きでいてくれたのか?と思うと後悔し、でも本気で好きだったら「浮気してもいいよ」なんて言わなかっただろうと考えたり、結果的に彼の態度が失礼になっているので、お互いのためにも別れた方がいいのだろうと思うが、15年以上の付き合いなのでまだ勇気がない。

別れを告げられて困惑したのは「浮気」をすることで、私の彼氏への不満を軽減し、関係を改善できるかもと思っていた部分があるからだ。

DV男に裏切りと猥褻をされたことで、解離性障害と強迫的性行動症が発症し「好き」「浮気を通じて、彼氏との関係を改善してる」と思っていた。

私はもともと一途な性格で、浮気は絶対してほしくないし、浮気がしたかったわけでもないし、浮気を「概念として」肯定しようとする自分が昔からいた。

それは父からされた猥褻言動が母親への浮気行為だと捉えることができたから。

浮気が肯定できれば、自分が父にされたことも肯定、少なくとも矮小化できるかも知れないという思考回路だった。

あらゆるセラピーを経て、父と対峙・絶交した後も、自分に起きた性的加害を認めるのが難しい人格が潜在意識にまだ存在していたことに本人としても驚く。

絶交後の両親の言動(更新中)

CPTSD(複雑性心的外傷後ストレス障害)(更新中)

希望:安楽死への準備(更新中)

こんなにもコントロールが難しく、大切な人の心を傷つけてしまう自分は早めに死んだ方がいいと思ってきた。

更なる被害を最小限にとどめるために、私は安楽死の準備をしている。

遺書の代わりに、子供の人権が尊重される社会のヒントになるよう己の経験をこうして綴っている。

子どもに「愛」という名で性的なことをし、孤独や支配欲を満たすことはどのように罪なのか、イメージしていただけただろうか。

どうか私みたいな人生を送りませんように。

📖📕📙📗📘📚

参考資料

私の人生を変えた本

①”The Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of WWII” by Iris Chang、(邦題:ザ・レイプ・オブ・南京:第二次世界大戦の忘れられたホロコースト

②『キレる私をやめたい〜夫をグーで殴る妻をやめるまで〜』田房永子著

③”Toxic Parents: Overcoming Their Hurtful Legacy and Reclaiming Your Life” by Susan Forward (邦題:毒になる親

性犯罪予防おすすめ本

①『うみとりくのからだのはなし』遠見才希子作

②ジュディス・L・ハーマンの著書全て:

真実と修復ー暴力被害者に撮っての謝罪・補償・再発防止策
(原題:Truth and Repair: How Trauma Survivors Envision Justice)

心的外傷と回復
(原題:Trauma and Recovery: The Aftermath of Violence—From Domestic Abuse to Political Terror)

父ー娘近親姦:家族の闇を照らす
(原題:Father Daughter Incest)


③『なぜ少女ばかり狙ったのか(原題:Murder of Childhood)』レイ・ワイヤ著

虐待を受けた子どもたちは、大人になれば自由が得られるという希望を抱いています。

しかし、強制的な環境で形成された人格は、大人の生活に適応していないことが多い。

基本的な信頼、自律性、そして主導権において根本的な問題を虐待を生き延びたサバイバーは抱えています。

自立と親密さを確立するという――自己のケア、認知、記憶、アイデンティティの重大な損傷、そして安定した関係を築く能力の中で重荷となります。

まだ自分の幼少期の囚人であり、新しい人生を築こうとする際に、トラウマと再び出会うことになるのです。

ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復』

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